涙の理由

 数日前に、赤井さんが退院した。それは驚異的な回復力だったらしい。さすがシュウだな、と笑い合っている先輩たちを見ながら、私は彼が無理をしていないかが心配だった。

「あ、赤井さんっ、私ですー!」

 そして今日、久しぶりの休日を使って約束通り赤井さんのマンションへと足を運んでいた。メッセージでのやり取りはしているけれど、話すのはあの電話以来。緊張しながらエントランスのカメラに向かってお辞儀をすると、赤井さんの声が聞こえてくる。

「ああ。今、開けるよ」

 声はいつもと変わらず。自動ドアが開いて、私は少し緊張しながら言われた通りの部屋番号を探した。何度か、手に持っている紙袋を握り返してみる。退院祝いを買ってきていたけれど、気に入ってもらえるだろうか。プレゼントはセンスが問われるから難しい。部屋を見つけてベルを鳴らそうとしたけれど、指がぴたりと止まる。身体を気遣い、そして物に執着していなさそうな赤井さんのことを考えて選んだけれど、ここへ来て自信がなくなってきた。

「っ……ぅあっ!赤井さんっ!」

 すると、勝手に部屋のドアが開いた。中から赤井さんが覗いている。どうした、と言いたげな表情をしているけれど、どうもこうもない。こっちは色々考えて、考えすぎて緊張しているのに。

「っ、おはようございます、すごく、久しぶりな感じがしますね!」

 私は気を取り直して軽く会釈した。赤井さんはドアを片手で開けたままゆっくりと口角を上げている。普段着ている服とは違い、首元が開いたラフなカットソーを着ていて、なんとも言えない色気があった。男性らしい太い骨格をまざまざと感じて視線が泳ぐ。

「それと……退院!おめでとうございます!」
「ああ、名前も。元気そうで何よりだ」

 赤井さんはそのまま、片腕を開いてハグをしようとしてくれる。ほぼ毎日顔を合わせるような関係だったから、少し照れくさい。遠慮がちにその広い胸元へ身体を寄せていくと、優しく包み込まれた。懐かしい煙草の香りがちょっとだけ心地いい。

「悪いな、わざわざ来てもらって」
「いえいえ!赤井さんはまだ、ゆっくりしていなくちゃ」
「まあ実際は、もう殆ど日常生活に問題はないんだがな」
「……煙草も解禁しているみたいですし?」

 悪戯っぽく、煙草のことを指摘すると「もう“出たんだ”、いいだろう?」と軽くウインクされた。そうだ、彼は自由な人だった。そして自由に見えてちゃんと自分を分かっている。ならばこれ以上言うことはなくて、私は案内されるまま赤井さんのお部屋にお邪魔していく。相変わらずさっぱりとしたお部屋のままだった。散らかすほどの物がないのだろう。

「ん?いい匂い……?」
「実はシチューを作ったんだ。後で一緒に食べよう」
「……え?!赤井さん、自分で……?」
「ああ、他にもいろいろ作れるようになったんだ」

 元々、赤井さんとはランチをする予定でいたけれど、当然デリバリーだと思っていた。まさか料理をする人だとは思いもしない。そんな話聞いたことが無かった。半分信じられない思いでキッチンまで付いていくと、コンロには大きな鍋が。蓋を開けてシチューを掻き混ぜている赤井さんの姿は少し誇らしげに見えた。

「えーっ、すごいですね!楽しみです!」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があったな」

 赤井さんは私の上着をハンガーに掛けると、座っていてくれと言わんばかりにダイニングの椅子を引いてくれた。手料理に、エスコートまで。退院祝いで顔を見に来たというのに、これではどっちが祝われているのか分からない。事前にもう少し今日について話し合っておくべきだった。

「あの、赤井さん……」
「ん? ああ、それはバゲットだ。近所にある店のものなんだが、どうやら有名店らしくてな」
「……自分で買いに行ったんですか?」
「散歩がてらな。それとケーキも買ってきたんだ」
「……え?!」

 思わず大きな声を上げてしまった。私がもてなされてどうするんですかと。言葉にせずとも見つめれば、赤井さんは軽く首を傾げている。

「余分だっただろうか」
「いや、そうじゃなくて……っ!」

 全く見当違いの返答に言葉が出てこない。何と言っても私が赤井さんにと持ってきたのは、ハーブティーとDVDだ。全然見合っていない。こんなことならもっと上質なものを選ぶべきだった。

「あの……すみません、これ私から。ちょっとした退院祝いなんですけど」

 そう思っても仕方がないので、私は半分諦めモードで紙袋ごと赤井さんに差し出す。

「ありがとう。悪かったな気を使わせて」
「いや、むしろ……っ」
「開けていいか?」

 思いの外、嬉しそうに顔を上げる赤井さんを見て頷くしかなかった。本当に大したものじゃないのに。

「ハーブティーか、いいな、嬉しいよ。せっかくだ、今から頂こう。名前も飲むだろう?」
「あ……はい!じゃあ私も何か、」
「構わん、そこに座っていてくれ」
「いやー、でも」
「おや、DVDまで用意してくれたのか?」

 赤井さん目が、少年のようだった。とにかく楽しそうで、楽しそうで。人と会えるのがそんなに嬉しかったのだろうか。それとも、此処がお家だから? 仕事中からは想像できない姿ばかりで、さすがに戸惑いを感じてならない。

「赤井さんって、いつもこんな感じなんですか?」
「ん?」
「おもてなし。まさか赤井さんが、こういうこと好きだなんて思わなくて」

 どう聞いたらいいか分からなくて、思ったままに正直な感想を述べると、赤井さんは作業する手を止めた。

「俺は決して、もてなし好きな訳ではないよ」
「……え?」
「名前が来るからだ」

 力強い瞳が向けられる。また、ドクンと跳ねる胸の鼓動。その言い方じゃまるで “私のために全てを用意しているんだ” と聞こえてしまう。冗談と、思いたくてもその瞳が違うと言っている。何も言えず困っていたら、赤井さんはキッチンカウンターに置いてあった紙袋を手に取った。

「サーモンとクリームチーズに、アボカドが入っている。今朝の店にあったんで思わず買ってしまったんだ。後で食べてもいいが、持って帰ってもらっても構わない」
「……え、っ?」

 差し出されたまま紙袋を受け取るけれど、頭の中はクエスチョンマークでいっぱい。だってこんなの、まるで。

「や、やりすぎ、じゃないですか?」
「……どういう意味だ」
「こんなことしてたら、口説かれてるってみんなに勘違いされちゃいますよ?」

 今日は私だったからいいですけれど。そんな意味も込めて、笑って誤魔化す。赤井さんと気まずくなるのは、嫌だ。私はただ、たとえ“それ以上”に見てもらえなくても、彼の背中を追う後輩でいたかった。その距離が切なくても、これでいいんだって何度も思っていた。それなのに。

「口説いているんだよ、名前を」

 自己防衛するように隔てていた壁を、いよいよ割って入ってくる赤井さんを、今はもう笑って誤魔化せない。赤井さんの瞳は真っ直ぐだった。

「……分かんない、っ」
「名前、」
「分かんないですよ。私は、妹みたいな存在なんじゃ……?」
「……妹?」

 いまいちピンと来ていないような赤井さんの返事に、呆れてしまう。あなたが言った言葉ですけど、と言い返したかった。でも言葉をぐっと飲み込んで、冷静さを欠かないように心掛ける。

「赤井さんが帰って来た後のパーティで、そう言っていました。それに……」
「待ってくれ。その時俺は、君を“妹のようだ”と言ったのか?」
「……はい」
「……ジークンドーの話で妹のことを“思い出した”ような気はしたが」

 名前を妹だと思って接したことはないよ。そう言われて頭の中が真っ白になる。ならば、彼が言うことが本当ならば、全て私の勘違いだったのだろうか。

「っ……でも、あの時っ!」
「名前、」

 赤井さんは優しく私を呼び、腕を軽く引き寄せる。まるで、ちゃんと聞いてくれと言うように。それでいて身体の奥までじんわりと温かくなっていくような、優しさも含んでいて。

「いつだって名前が大事だった」

 見つめ合う瞳から想いが伝わってくる。何故か目の奥がじんわりと熱くなっていた。赤井さんは私の後頭部に添えると一度髪を梳くように撫でる。

「いつも名前の無事を確かめずにはいられなかった。無茶などせず、ただ笑っていてくれと、願っていた」
「……っ」
「ずっと、それだけを願っていた」

 頬に添えられる大きな手。その指先から赤井さんの思いがひしひしと伝わってくる。本当は続きを聞くのが怖い。関係が変わってしまうのを躊躇ってしまう。でも。

「もう、ただの同僚ではいられないと、そう思ったんだ」

 私を覗き込むように揺れる瞳は、ずっと見てきた翡翠色の。

「名前を、愛したい」

 赤井さんの言葉が私を満たしていく。その瞳に捕えられたまま息ができない。真っ直ぐな言葉と真っ直ぐな瞳が、全てを物語っていた。

「……っ」

 気づけば、はらりと涙が頬を伝う。慌てて下を向くけれど、もう遅い。赤井さんは目を見開いて慌てたように手を私の頬へ伸ばしていた。けれど触れるべきか悩んでいるのか、空を切っている。それでも頭を優しく撫でられて、余計に涙が溢れてしまった。

「悪い……そんな、つもりは……っ」

 弱々しいその声にハッとする。もしかしたら赤井さんは、私が何で泣いているのか分かっていないのかもしれない。

「すみません……大丈夫、です」

 自分で涙を拭って呼吸を整えていく。泣いていちゃダメだ。ひとまずハンカチを取ろうと、視線を鞄に向ける。

「っ、待ってくれ」

 伸ばした手が、赤井さんによって遮られた。

「名前……まだ、居てくれないか?」
「……っ、え、?」
「戸惑うだろうが、何も、今日どうこうするつもりはないんだ」

 どうやら赤井さんは、私が今から帰ると思っているようだ。きっと私が泣いてしまったから、嫌な思いをさせたと思って。つまり私が赤井さんのことを想っているなんて、彼は考えてもいないのかもしれない。思い返せば、確かに私はずっと、そういう振る舞いをしていた。

「良かったら予定通り居てくれないか?今日は君とただ過ごしたい」
「……赤井、さん」
「名前がくれた茶を飲みたい……シチューも」
「何、ですか……それっ」

 赤井さんには失礼かもしれないけれど、可愛らしい要望に思わず笑みが零れてしまう。眉尻を下げて、頼むよと言いたげに見つめている。その瞳と、スコープを見つめる瞳が同じだなんて全く思えない。

「ふふ、っ……」

 全てが繋がると、今までの全部が愛おしくなって堪らなくなった。笑って赤井さんを見れば、彼はまだ私の気持ちを図りかねているみたい。そんな赤井さんに悪戯心が働いてくる。私はゆっくりと赤井さんの方へ自分の身体を寄せて、頭を預けてみた。

「名前……っ」

 赤井さん、好きだよ。

 ずっとずっと、好きだったんだよ。その想いが伝わる様に何度も心の中で叫んだ。腕も大きく回してギュッと力を込めていく。赤井さんが頭上で戸惑っているのを感じる。そんな時間も愛おしくてまだ味わっていたくなる。随分と、遠回りしていたみたいだね。今の関係を壊すのが怖くて、怖気づいていた。ここままでいいと言い聞かせてきた。でも、やっぱりずっと好きだったんだ。

「ね……赤井さんっ」

 いつもの声で彼を呼び、顔を上げる。赤井さんは少し目を丸くしていた。

「私も、」

 恥ずかしくって、その後は唇を噛んだまま。ずっとは見れなくて、ちらちらと赤井さんを見ればその表情が徐々に柔らかくなっていく。

「名前……」

 愛おしげに名前を呼ばれては、頬を撫でられた。そうしてまた、赤井さんの腕の中へ包み込まれる。頭頂部へキスが落とされ身体がじんわり熱くなった。想いの通じ合ったあとの抱擁は何にも変えがたいほど心地よい。やがてキスが降下していく。こめかみや頬を通って、少しだけくすぐったい感覚に身体が自然と揺れてしまう。

「ふふ、っ……」

 恥ずかしさから逃げるように顔を背けたりしてしまうけれど、赤井さんはその隙を見つけては私の顔に唇を寄せていく。乾いたような息を漏らしながら、赤井さんも口角が上がっていた。

「名前……っ」

 鼻先同士が近づいていく。身体の奥まで蕩けそうな声に動けなくなる。もう愛でしかなかった。瞼にキスが落とされて、そのまま目を閉じていく。

「っ……ふふふっ、」

 ほんの一瞬、唇同士が触れ合う。でも恥ずかしすぎて私は下を向いて笑った。コツンと、頭頂部を赤井さんの胸に当てて必死に顔を隠す。柔らかな唇の感触を思い出すと顔がニヤけて仕方がない。必死に隠していたのに赤井さんが無理にかがみ込んでくるから。そうして笑い合いながらもう一回だけ唇を重ねた。これはまだ、太陽が頂上へ昇った昼間の出来事。